幕末に西洋式の軍服を着用するようになると、軍靴も西洋式の物が採用され輸入されました。
けれど外国サイズは日本人には大き過ぎる!
というわけで、急遽国産の軍靴が必要になったというのが、西洋式靴工場設立の背景だったそうですよ。
では、この西洋式靴工場は誰が造ったのでしょうか……。
日本初の靴工場を造ったのは…
幕末に西洋式の軍服が取り入れられ、足元も洋式の軍靴が採用されるようになりましたが、日本人の足にはなかなか馴染みませんでした。
明治時代になり、陸海軍を統率していた大村益次郎の要請により、佐倉藩の藩士であった西村勝三が国産の軍靴を作ることになりました。
勝三は26歳で商人となり、鉄砲の弾やピストルの皮袋などを扱っていました。
日本初の靴工場について
大村益次郎の要請を受け、西村勝三が東京築地入舟町(現・中央区築地1丁目1番地)に、日本初の西洋式の靴工場、伊藤勝造靴場を造ったのは1870年(明治3年)のことでした。
製品は国産の物ができるようになったものの、当時の日本には洋式の皮革加工法がなかったために、素材の皮革は輸入に頼らざるを得ませんでした。
勝三は同年に製革工場も造り、2年後国産の皮革を用いた軍靴の製造に成功しました。
靴の記念日
西村勝三が日本初の西洋式の靴工場を造った3月15日を、1932年(昭和7年)に日本靴連盟が『靴の記念日』としました。
工場を設立した日が記念日とされた西村勝三は、その後1894年(明治27年)に始まった日清戦争で大きな利益を上げ、国産靴製造の先駆けとなったのでした。
まとめ
国産の軍靴の必要性を感じた大村益次郎の要請を受けて、日本初の西洋式靴工場を造ったのは西村勝三という一介の侍でした。彼の弟子にも侍がいたそうです。
明治という時代になり、侍も自分の才能を生かした新たな生き方ができるようになったのですね。
彼が工場を造った中央区入船三丁目には、工場設立の石碑が立てられています。