幕末から日本で見られるようになった洋式の靴。
明治維新をきっかけに軍や華族階級において公式なものとして用いられるようになりました。
日本人には馴染みのなかった洋式の靴ですが、どのように日本国内に広まっていったのでしょうか。
明治時代の洋装の広まり
幕末に西洋式の軍服が採用され、維新後正式に洋装が上流階級の礼装と決められたことにより、洋式の靴は日本国内に浸透していきました。当初は上流階級の人々の履物であり、庶民の履物はまだ草履でした。洋装を採用した職種も多くなり、徐々に庶民にも洋式の靴が広まっていったのです。
洋式の靴を作る工場
1870年(明治3年)3月15日、千葉県佐倉の西村勝三が日本で初めての洋式の靴を製造する工場を造りました。初期にここで作られたのは軍靴が多かったのですが、鹿鳴館で履くような礼装用の靴も作られるようになりました。
当時の洋式の靴
礼装として西洋式のものが着用されるようになると、紳士は大礼服やフロックコートに七つはぎや深ゴムの靴を履いていました。婦人は裾の長いドレスに編上げやボタン付き中ヒールのブーツを履いていました。婦人靴は絹製でした。
まとめ
このように明治時代に入ってからの洋式の靴の普及は、軍靴と礼装用の靴は洋式のものとされたことが大きかったのです。華族階級の礼装からさまざまな職種の洋式化を経て、やがて洋式の靴は庶民の間にも広まっていったのです。